
今は昔
このごろは、私のおじやおば達もそろそろ怪しくなってきました。
一人欠け二人欠け
昔のことは、今のうちに聞いておかないと、
本に書いていないようなことは、
永遠になぞとなってしまいそうです。
そこで、おじやおば達が話した昔のことを最近は書き留めるようにしています。
今回は戦時中の話です。
私の家の近くには高射砲の陣地がありました。
全部で6門の大砲があったそうで
近いので砲がいっせいに火を噴くと、けっこうな音がしたと思われます。
昭和20年、B29の編隊は連日のように私の家の上を東京へ向けて飛行していたそうです。
そして気まぐれに私の村にも焼夷弾を落として行きました。
戦後70年経ちましたが、これがそのときの焼夷弾です。

このため村の何軒かは焼夷弾の犠牲となりました。
(同じ市内にある私の祖母の実家は焼夷弾のために全焼となっています)
鶴見川沿いには工場があったので、250キロ爆弾も投下されたそうです。
叔父の証言
「隣村に250キロ爆弾が落ちた。すさまじい音がした。翌日落ちた場所を見に行ったが、大きな穴が開いていた」
焼夷弾についての証言
「焼夷弾は爆撃機から落ちると、トラックが荷台を上げて砂利を空けているような音がした。」
飛来するB29には対空砲火の他、厚木基地から飛び立った戦闘機が迎撃しました。
おじ達は実際に日本機とB29の空中戦も見たそうです。
以下叔父、伯母の証言。
「日本軍の戦闘機はB29の後方から近づいて機銃掃射を浴びせかけたが、爆撃機はそのまま飛んで行ってしまった。」
「日本の戦闘機がB29へ体当たり攻撃をしていた」
「日本の戦闘機が撃墜され、機体の一部が近所の畑に落ちてきた」
「突然、アメリカの戦闘機が低空で飛んできた。あぶないと思い、あわてて茶畑に隠れた」
轟く大砲の音、降り注ぐ焼夷弾。
戦争末期は一般国民にとっても過酷なものでした。
横浜大空襲のあった晩、私の母は
「防空壕の中からそっと港の方を覗いたら、空が真っ赤になっていた」
と言っていました。
旧制中学の1年生であった叔父の証言です。
勤労奉仕の配属先を決めるのに、事前に面接試験があったそうで、
叔父はそこで、優秀と判定され
目黒の海軍技術研究所への配属となりました。
その後、秦野にあった専売公社の工場などにも行ったそうですが
最後は厚木飛行場だったそうです。
軍の基地なんかで中学生がなにをしていたのかと聞いたところ
叔父は得意そうに、「偵察機に無線機を取り付ける仕事をしていた」と話していました。
叔父はもともと、理工系の知識が豊富な人でしたが、整備兵でもない中学生に
そんな仕事をさせなければならないとは、
戦争末期の人材不足は、相当にひどいものだったようです。。
ちなみに叔父は、空襲警報が鳴ると一目散に飛行場の外に広がる森の中に駆け込んで隠れていたそうです。