南極観測船 宗谷




船の科学館が休館となり宗谷の維持管理が難しくなっていると聞きます。
今日は久しぶりに宗谷の勇壮を見るため、お台場へやってきました。



昭和を象徴する船、宗谷。

戦前の宗谷は、海軍の測量船として連合艦隊の裏方の仕事をしていたそうです。
南太平洋の航路を確保するため、海の測量を行い、航路に浮標ブイを設置し、掃海任務に携わるなど特殊な仕事をしていました。
地味な仕事ながら、宗谷が働かなければ日本の軍艦は安全に航行ができなかったのです。

トラック諸島からラバウル、そしてミッドウエー海戦へ、その後またラバウルへ。
開戦当初から参戦している軍艦で太平洋戦争を生き抜いた艦は非常にめずらしく、なかでも宗谷は、休む間もなく働きづめでした。


(そろそろ本格的に手入れをしなければ手遅れとなってしまいそうです。)

海軍時代の宗谷の2代目艦長に久保田智中佐(後に大佐)という人がいました。
話は少し宗谷からそれますが、久保田艦長は宗谷の艦長を勤めた後、駆逐艦隊の司令となり、その後、軽巡洋艦「名取」の艦長となります。
ところが、名取はフィリピン沖で潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没し、久保田艦長も艦と運命を共にします。
この時、艦には733名の兵員が乗船していましたが、183名がカッターボートで脱出し、13日かけてミンダナオ島のスリナガオまでたどり着きます。
偶然にも私は、この時の183名のうちのお一人にお会いしたことがあり、当時のことを直接ご本人より伺ったことがありました。(詳細は「先任将校」松永市朗署 という本に詳しい。)



戦後は、引揚船として多くの人々(1万9千人余り)を運び、
その後宗谷は、灯台補給船を経て南極観測船となり、宗谷の名を不動のものにしました。
日本海軍なきあと、宗谷は日本の旗艦として活躍し続けてくれたのです。



日本国のその時々の理由から様々な航海をした宗谷
多くの人々の人生に関わり
波乱万丈の船歴を残した宗谷
なんとかこれからも保存していきたいものです。